NEC発、がんと闘うAI技術。

013-l

2016年、がん治療用ペプチドワクチンの実用化に向けて、NECはサイトリミック社を設立した。異分野ともいえる創薬の世界にNECが進出を果たした背景とは。世界的にみても珍しい、AIによる創薬支援事業は、どのようにして生まれたのか。長年、NECでバイオITの分野に携わり、サイトリミック社の代表取締役を務める土肥俊氏に話を聞いた。

5000億通りのパターンから、
最適解を導き出せ。

一般に、ワクチンの開発・実用化には10年以上の歳月がかかると言われている。いかに臨床試験で効果を上げていても、すぐの実用化は難しい。「そこで注目されたのがAIなのです」土肥らが取り組んでいるのは、世界的に見ても珍しいAIを活用した創薬支援だ。
話を進める前に、まずNECが推進している創薬支援の内容について少し触れておきたい。土肥率いるサイトリミック社が開発しているのは、NECが山口大学、高知大学と共同で発見したがん治療用ペプチドを使ったワクチン、がんの「第四の治療法」として期待されている免疫治療に使われるワクチンである。免疫治療とは、抗がん剤のようにがん細胞に直接作用する化学物質を投与するのではなく、本来患者の体に備わっている免疫力を活性化することで、がんを治療したり、転移を予防したりする治療法だ。「あと10年ほどもすれば、免疫治療が主になると言われているほど、今注目されている治療法です」それだけに免疫治療に必要なワクチンの開発・実用化は急務だった。
「免疫を活性化するペプチドを発見するところが、ワクチン開発の出発地点。約5000億通りあるアミノ酸配列の中から条件に見合うペプチドを探し出さなければならなかった」人それぞれに異なる白血球(HLA)型に対して、汎用的に適合するペプチドを発見しなければならない。さらに、選び出したペプチドの効果を促進する免疫補助剤(アジュバント)の探索も必要になる。従来の方法では、膨大な時間とコストがかかるため、土肥が採用したのが、機械学習と実験を組み合わせる、NEC独自の「免疫機能予測技術」だった。「各学習機械に異なるペプチドの結合実験結果をインプットし、未実験パターンの約5000億通りの結合の強さを予測することで、創薬の効率化を図りました」医療とIT、各分野のプロフェッショナルの英知を集めた一大プロジェクト。その陰には、「なんとしてでもワクチンの実用化にこぎつけたい」という土肥のバイオITへの執念があった。

束の間の、バイオITバブル。

バイオITに関わる以前、土肥はスパコンの研究一筋だった。「当時取り組んでいた産業応用の一つが、車の衝突解析。スパコンで数値解析を行うこと、それ自体に喜びを見出していたというよりも、社会的に価値のある仕事をしている、ということが何よりのやりがいだった」そんな折に、役員の鶴の一声で、土肥はバイオIT事業開発の統括を任されることになる。衝突解析からは離れるも、全く異なる分野で十数年後、再び「社会に役に立つ仕事」に携わることになろうとは、その時の土肥は、想像すらしていなかった。
「ちょうど世界の錚々たる研究機関が、ヒトゲノムの解析に成功した頃。誰もがバイオの可能性に注目していた。この流れで、全ての生命現象が解き明かされるだろうとまで言われていました」IT企業がこぞってバイオITの研究に乗り出す中、NEC内にも基礎研究から事業開発まで横串で行える組織が発足。筑波の研究所に約50人の精鋭が集められた。2005年には年間200億の売上を上げる組織になる、予定だった。ところが、状況は数年で一転する。ヒトゲノムの解析に成功したとはいえ、実際には最初のヒトゲノムの配列が判明したにすぎない。どのように細胞が生まれ、どのように組織が誕生するか? 全ての生命現象が解き明かされるのはまだ遥か先の話である。バイオIT技術の実用化は、夢のまた夢。「あの時はまだ、機が熟していなかった」次々に各社が事業の撤退や縮小を行う中、土肥の部隊も苦しい選択を迫られた。

「がん診断」に託された、希望の光。

創薬支援、研究支援、がんの診断支援を行うシステムなど、いくつもの立ち上げたばかりの製品・事業が撤退を余儀なくされた。大学の先生に認められてようやく販売したばかりの製品も打ち切らなければならなかった。「先生、すみません。今後はサポートができなくなりました」頭を下げに行った時のことを、土肥は未だに覚えている。「当然怒られました。個人的には、バイオITの事業開発を続けたかった。それでも諦めないといけない。悔しかったですね」だが、土肥は望みを捨ててはいなかった。「がん診断支援のシステムは事業性が見え始めていたところ。ここでやめる訳にはいきません」土肥らの訴えが届き、がん診断の研究開発は続行。唯一残された、がん診断の事業化に希望が託された。
がん診断は、生検といって、針でとってきた小さな組織の断片を病理医が顕微鏡で検査し、がんか否かを確定する。この診断を間違うと、見逃しあるいは誤手術となり大きな問題となる。「専門の病理医の診断でも100%確実な診断はありえない。誤診を防ぐために、高度の画像解析技術を応用できないかと考えたのが、がん診断の始まりです」NECは、米国のマサチューセッツ総合病院や、オランダ・フィリップス社との協業を図り、テクノロジー開発を推進。こうして構想からおよそ10年後、2010年には国内の検査センターにがん診断を支援するNECの先端的システムが導入され、運用されだした。実は、その後のビジネスの成長を土肥は拝んでいない。「丁度役職定年を迎えていたので、事業化の道筋が見えた頃には、がん診断からは離れていました」土肥が、がん診断の次に取り組んだのは、がんの治療のための創薬支援だった。

開かれた、創薬支援の扉。

「魑魅魍魎の世界」創薬の世界を、かつて土肥の上司の役員はこう言い表した。その市場規模は言わずもがな。素晴らしい新薬が生まれれば、累積にして「兆」の単位でカネが動く。カネの周りには、「魍魎」たちが、有象無象にうごめいている。「何も知らないIT企業が、のこのこ入っていける世界ではない」、上司の役員にそう諭された。2000年代、一度は諦めた創薬支援に、再び取り組むきっかけになったのは、山口大学の岡先生との出会いだった。「山口大学では2007年から、すでに肝癌を対象とした免疫細胞治療(樹状細胞療法)の臨床試験を行っていました。再発を抑えるために、術後に患者から採取した血液に、ペプチドワクチンに相当するような活性化処理をし、体内に戻す治療を行い、効果を出していたのです」ところが、この細胞療法では、1日に2人の患者しか治療ができない。さらに法改正により新たな制約も加わった。「自分たちがやってきた研究の成果を、ワクチンにすることで広めて欲しい。ペプチドワクチンをつくらないかと、NECにお声がけをいただいたのです」土肥はすぐさま社内に働きかけた。チャンスを与えてくれたのは、事業イノベーション戦略本部の事業部長だった。「せっかく臨床で成果が現れはじめている。その成果を広めるためにもこの事業化を進めさせて欲しいとの訴えに、「俺のところでやってみろ」ということになった。こうして再び、NECは創薬支援に乗り出すことになる。

社会の役に立つ、という原動力。

プロジェクト始動後、土肥らはNEC独自の「免疫機能予測技術」によって、肝臓がん、食道がんなどの消化器癌で発現する2種類のがん抗原を対象に、免疫を活性化するペプチドの探索を開始。2014年には、10種以上のペプチドの発見に成功した。翌年には、ペプチドワクチンの効果を増強する革新的な免疫アジュバント(免疫活性化補助剤)を山口大学と共同で発見。2015年の段階で、すでにペプチドワクチンを人に投与する臨床研究の準備は整っていた。いざ投与をはじめる直前のことを、土肥は鮮明に覚えている。2015年初頭、土肥は社長の元に報告に行った。委託研究とはいえ、自社が関わったワクチンを患者さんに投与する、というのはNECの歴史が始まって以来、初めてのこと。「患者さんに何かあったらどうするのか」当然ながら、厳しい追求があった。「説明を尽くしたら、最後は理解してもらえた。やるべきことを全てやったと言い切れるのなら、あとは任せると。その時の社長の信頼には救われました」
臨床研究を始めるにあたって、進行癌の患者さんとの忘れられない出会いがあった。患者さんの家族からの温かい励ましもあった。命に向き合うことへの重圧と同時に、土肥は使命感を感じていた。「IT企業で、こんな仕事に携われることって、なかなかないと心底思います」車の衝突解析の研究から離れて、十数年。こうして再び、「社会に役立つ仕事」に取り組むことが、土肥の原動力になっている。

「決して私一人ではできない。今があるのは、全て周りのみなさんのおかげ。だからこそ、感謝の気持ちと謙虚さを常に大切にしています」土肥は今年、61歳。経営者としてはピカピカの1年生だ。「この年で、周りがこんなにも期待してくれるなんて、企業人として最高に幸せなことだと思います。1日でも早くワクチンを実用化し、一人でも多くの患者さんの命を救うために、今は無我夢中で走り続けています! 」

土肥 俊(Shun Doi)
北海道大学大学院工学研究科博士課程修了。1984年NECに入社。情報工学をベースとし、2000年以降、生命科学分野の新IT事業、特にがん診断・治療関連の事業開拓を進めてきた。2016年よりサイトリミック株式会社、代表取締役社長に就任。
TEXT BY 山田知奈(株式会社パラドックス)
PHOTOGRAPHY BY 今井裕治