「遊び心」で、社会の常識を変えていく。

大人になると人は、時に「常識」というものに縛られる。しかし、いくつになっても遊び心を持ちながら、世の中が驚くような企画を生み出し続けている男がいる。それが、池澤守氏(現株式会社池澤守企画 代表)だ。彼は以前所属していたナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)で『ナムコ・ワンダーエッグ』や『ナムコ・ナンジャタウン』の企画を立ち上げ、『横濱カレーミュージアム』『自由が丘スイーツフォレスト』などのプロデュースを行った立役者。その、全ての企画で年間100万人以上の集客を達成し、大成功へと導いている。時代の流れを読みながら、世の中にないものを継続的に企画できるのはなぜなのか。新たなアイデアを生み出し続けている彼の思考を解き明かしていく。

お金がない! 前例もない!

1979年、池澤は大手アミューズメント企業のナムコに入社した。約1年間ゲームセンターのオペレーションに関わった後、イベント事業を担当する部署に配属になった。ここから、池澤の企画マンとしての人生がスタートすることになる。

「多摩美大の高橋教授(当時)が空気膜で造形されたロボット『バボット』を開発しました。1984年、その空気膜ロボットの発表の場が作れないかと、お声掛けをいただいたのです」

依頼を受けた池澤は、ただ普通の発表イベントをやるだけではつまらないと考えた。

「会場として準備できたのが、高層ビル『新宿NSビル』の巨大な吹き抜け広場でした。せっかくお披露目のためのイベントを開催するのであれば、空気膜ロボットが大きな話題になり、ビル全体も大集客に沸き立つくらいに人を呼んでやろうと思ったのです」

しかし、人を呼ぶには大きな課題があった。かけられる予算が非常に限られており、広告を出すことができなかったのだ。お金をかけて告知が出来ない状況で、池澤がとった作戦とはなんだったのか。

「ビラ配りやポスターなどの、小さな告知の予算さえもありませんでした。そこで、広告ではなくニュースリリースを活用することにしました」

企画や商品が世に出る時に、会社がマスコミにニュースリリースを出す。これは、今では当たり前のことかもしれないが、当時では革新的なことだった。

「そうと決めてからは、マスコミ電話帳の端から端までチェックして、少しでも関係がありそうなメディアをピックアップし、一週間分の新聞のテレビ番組欄を広げて片っ端からリスト化して、リリースを送りました。その時は、ルールなんて考えずに突っ走りました。いきなりニュースリリースが送られてきて、なんだこれはと思った人も多いでしょうね(笑)。でも、決まり事なんて気にしていたら、話題作りなんて出来ないですよ」

どのような内容のニュースリリースにするのかも、池澤なりの工夫があった。

「ただの展示会じゃ絶対に人は来ないと思いました。その時に思ったのは、みんな“世界初”とか“最大”のような言葉が好きなんだろうな、ということ。そこで、『世界最大のロボットの開発に成功しました! 』と告知をしたのです。最後にちょこっとだけ『その発表イベントが新宿NSビルで開催されます』と入れて(笑)。もちろん、嘘はいけませんが、話題作りをするためには突出することが大事です。枠にはまったやり方では、人は動きません」

結果的に、池澤の読みは大当たりした。オープン前日のプレス内覧会にはテレビカメラが20台以上駆けつけ、緊急記者会見も開かれた。

「オープン当日から、人気は大爆発でしたね。会場の新宿NSビルのレストラン街が、昼前には食材が無くなってしまうほど、人が溢れかえりました」

広告にお金がかけられない状況でも、型破りな発想で多くの人を動かした池澤。このエピソードは彼のその後の企画人生にも大きな影響を及ぼすことになる。

「何かを生み出すときには、必ず壁にぶつかる時があります。でもこの時の成功体験以来、意外とどんな困難も考え方次第でなんとかなるということを学びました」 

頭を抱えた、クリスマス・イヴの夜。

限られた予算の中で、空気膜ロボットのイベントを大成功に導いた池澤。次に彼が取り組んだエポックメイキングなイベントが、1990年に開催された、国際花と緑の博覧会(以下:花博)でのプロジェクトだった。花博は、通称“花の万博”と呼ばれ、日本を含む80カ国以上の参加が予定されていた国際的にも注目されているイベントだった。

「エンターテイメント業界におけるナムコの企業ブランドを揺るぎないものにするために、花博の遊園地ゾーンへの出店を企てました。テーマは“21世紀における遊園地とはどうあるべきか”。これまでの遊園地とは異なる、未来への提案を求められていました」

池澤は、これまでになかった新しい遊園地を創るためには、なにか目玉になるものが必要だと感じていた。

「アメリカで見つけた宇宙空間での無重力体験装置の仕組みを活用した、世界初の遊戯施設を提案したのです」

企画を花博の遊園地ゾーンの責任者に伝えたところ絶賛されて、ナムコの遊園地出店が内定した。しかし、それですんなりいくほど甘くはなかった。

「世界初となるその装置を作るとなると、開発と行政許認可に何年も必要になることがわかりました。花博の開催日程には全く間にあわない事が判明したのです」

順調かと思われていたプロジェクトが急に白紙になった。頼みの綱がなくなってしまった以上、ナムコの花博への出店自体が危うくなってしまったのだ。

「そこで花博プロジェクトの責任者であったナムコの副社長に、もう一度提案のチャンスをくれと必死に頼みこみました。どうせ無駄だと冷たく言われましたがね(笑)」

クリスマス・イヴの夜、深夜のオフィスで池澤は上司と一緒に頭を抱えていた。

「企画は白紙。でも、もう次の朝には企画を出さないといけない。この時は絶体絶命だと思いましたね。でもその時、ふと“遊園地ってなんだろう? ”と考えたのです。“ナムコだからこそできるアトラクションがあるはずだ”と」これが新たな企画が生まれるきっかけとなった。

「そこから、ゲームみたいなアトラクションをつくろう! とひらめいたのです。乗り物に乗るだけじゃつまらない。例えば自分で魔物を倒していくRPGのような体験ができる遊園地があれば面白いのではないかと思いました」

池澤は、そこから一晩で企画書をまとめて、最後の最後に振り絞ったアイデアを副社長にぶつけた。観るだけ乗るだけの遊園地の乗り物とは全く違う、来園者が主役となって活躍するアトラクション企画だった。その後、花博の遊園地ゾーンの責任者にも非常に高く評価され、無事ナムコの出店が決まった。最終的には、参加体験型というコンセプトに基づいて、シューティングライド「ドルアーガの塔」というアトラクションが完成した。同施設は花博で高い人気を獲得し、新しい遊びの形を世の中に提案するものとなった。

人を「観客」から「主人公」に変える。

花博での経験は、都市型テーマパーク「ナムコ・ワンダーエッグ」に受け継がれることになる。同施設は、都内の一等地にある再開発用の広大な敷地を暫定利用するプロジェクト。ゲームメーカーがテーマパークを運営するのは日本初の試みだった。

「立地も規模も、申し分ない好条件。絶対に面白い企画ができると思い、地主の東急電鉄さんからのお話に、是非やらせてほしいと手をあげました」

しかし、建設予定地は都心の高級住宅街のど真ん中。メリットもあれば、壁も大きかった。

「さまざまな企画を考えましたが、全て却下されました。なぜなら、住宅が近くにあるので大きな音や、光が出るものは全てNG。それならと、地下を掘ってジェットコースターを通すようなことも考えましたが、予算が全く合いませんでした」

産みの苦しみは数ヵ月続いた。しかし、池澤を救ったのは花博での成功体験だった。

「花博での企画の際に感じたことは、それまでのテーマパークは映画館がベースになっているということ。例えばディズニーランドは、ウォルト・ディズニーが築きあげた映画製作の手法を3次元化したテーマパーク。その中で来場者は、映画館で映画を観るように、ライドに乗って物語を観て回る“観客”なのです」

一方で、ナムコがつくるゲームは自分が“主人公”となって、物語に入り込んでいく。

「ゲームの考え方を取り入れたテーマパークであれば、一人称視点で空間をコンパクトに設計できますし、人によってストーリーの展開が異なるため、何度も足を運びたくなります」

スペースをあまり使わずに、建物内で完結できて、高いリピート率をも期待できる池澤の企画は、まさに住宅街の中で展開できる“都市型テーマパーク”にぴったりだった。

「花博での考え方を活かして、限られた空間でも来園客が主人公となり物語を疑似体験してもらえるような能動性を機軸に据えた設計を考えました」と、池澤は当時を振り返る。

こうして、屋内に閉じ込められた音と光の渦の中で展開する、濃密かつ能動的なアトラクション体験の数々は、閑静な住宅街との良好な関係を築くことに成功したのだった。しかし、花博での経験はあっても、世の中に同じようなテーマパークはもちろん存在しない。

「実際に設計するときには、いろいろなパークに足を運んで、“自分がつくるとしたらどうするか? ”ということばかり考えていました。この事業モデルだと、資金はどれくらいかかって、どのように人が動くのだろう、と。既存の仕組みを徹底的に学んで、それをどうやってひっくり返したら面白いかを考えていましたね」

その後、池澤が企画した期間限定の都市型テーマパーク『ナムコ・ワンダーエッグ』は、若者に向けた新たな都市型レジャー空間として、新市場を切り拓き社会現象を巻き起こすほどの大好評を得た。

遊びの本質は、「非常識」であること。

これまで様々な企画を考え、その多くを大成功に導いてきた池澤。彼はなぜアイデアを生み出し続けることができるのだろうか。企画をつくる時に、一体どんな考え方をしているのか。池澤はこう語る。

「僕はずっとエンターテイメント、言い換えれば“遊び”の業界にいました。遊びの世界には、普通の業界とは真逆の法則があります。例えば、実用品は好きとか嫌いじゃなくて、機能が求められますよね。でも、それが遊びとかゲームの世界になってくると、好みは十人十色。まったく異なります。遊びの世界では、人はどこかで“非常識”をもとめているんですよ。娯楽の世界は、非常識なこと自体が商品になるのです」

しかし、非常識はだんだん常識に変わっていく。その次は、まったく違った角度のモノが求められる。それの繰り返しが“遊びの業界”なのだ。

「新しいモノを生み出す時は、常に二律背反だと思うのです。だって、これまで世の中にないものなのに、裏付けを持ってこいって言われるんですよ? そんなの、無理に決まっているじゃないですか(笑)。そういうとき私は、根拠を欲しがる人って、“騙されたがっている”のではないかと思うのです。もちろん、いい意味でね」誰しもが、新しくて面白いものは見てみたいはずだ。しかし、失敗した時のリスクを考えると、自分が納得できるだけの根拠を求めてしまう。

「だから私は一見よく似た成功事例を持ち出して、大丈夫だと断言してあげます。でも誰もやったことがないのですから、本当はそんな事例は気休めにしかならなりません。そこは、ある種したたかになりながら、周りを巻き込んでいく。そうすることで、初めて企画が実現に近づいていくのだと思います」

池澤はこうも続ける。

「企画を実現させるためには、時に、合理的に頭を使って、“したたかに”考えることが大事です。でも、アイデアを考える時の考え方は逆。素のままの自分といいますか、全ての先入観をとりはらって頭を使います。思考を異次元に飛ばしながら、“しなやかに”頭を使ってとことん非常識な事を考える。この“したたかさ”と“しなやかさ”のどちらも両立させて初めて、世の中を驚かせるような企画が生まれるのだと思います」

池澤 守(Mamoru Ikezawa)
株式会社池澤守企画 代表取締役
1955年生まれ。1979年に株式会社ナムコ入社後、イベント事業、玩具事業など、新規分野の企画業務・事業開発業務およびパークビジネスの事業化を担当。1990年の花博での出店企画を皮切りに、1992年に都市型テーマパーク『ナムコ・ワンダーエッグ』1996年に『ナムコ・ナンジャタウン』を企画・運営。2001年に企画設計集団『チームナンジャ』を編成し、フードテーマパークの事業に乗り出した。同年『横濱カレーミュージアム』2003年『自由が丘スイーツフォレスト』等、全国25か所のフードテーマパーク・プロデュースを手掛ける。その全てにおいて年間100万人を超える集客を達成し大成功させている。2015年に独立し、株式会社池澤守企画を設立。テーマ型エンターテインメント空間の企画、プロデュース、コンサルティングを手掛けている。
TEXT BY 新谷建人(株式会社パラドックス)
PHOTOGRAPHY BY 今井裕治