新たな人工脳を生んだのは、「人間の脳にはかなわない」という想い。

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人工脳 『SOINN』開発プロジェクト

2010年に『ビッグデータ』というワードが聞かれるようになって以降、世界の情報工学への関心は一気に高まった。研究者だけでなく、人々の生活やビジネスにも役立てたいと、企業からの注目も集めている。なかでも、今回話を聞いた長谷川修氏が開発したのが、学習型の汎用人工知能、SOINN。人間と同じく、運動や知覚、記憶、連想など、感情以外の様々な情報処理をすることのできる人工脳だ。

人間の脳には敵わないと感じたからこそ、
「新しい脳」の研究に没頭した。

SOINN研究の原点は、まだ長谷川が学生だったころのこと。機械工学を学んでいた彼は、卒業研究としてロボットの目の研究を行っていた。ロボットの目、つまりカメラから取り込まれる画像データを、ロボットが知覚できるよう処理をする。この研究に取り組む中で、長谷川が味わったのは、途方もない苦労だった。いま振り返って語る彼の表情も、どこか苦笑いだ。

「研究は全然うまく行かなくて。『ロボットってこんなに、何もできないんだ』と気付かされたんです。たとえばロボットが、目の前に置かれたコップを認識して掴めるようにするとしましょう。そのためにはコップの画像をロボットの目から取り込んで、それがコップだと学習させます。こう説明すると、簡単そうに思えるかもしれません。でも、全然上手くいかなかったんです。

当時のロボットの目と脳だと、映ったものをそのまま1枚の画像として認識するんですよ。だから光の当たり方がちょっと変わったり、コップをテーブルに置く位置が変わっただけで、ロボットは同じコップだという認識ができなくなる。毎日夜中まで頑張っても全然結果が出せず、頭を抱える続ける学生生活でした」

しかしそのときの「ロボットってこんなに、何もできないんだ」という長谷川の落胆は、次第に別のモチベーションへと変わっていったとも、彼は強調する。

「光の当たり方や置き場所によって、同じコップだと認識できなくなるロボットに対して、私たちはどうするか。あらゆる光の当たり方や置き場所のコップ画像を用意して、全てそれが同じコップだとロボットに覚えさせなければならないんです。画像の量は膨大。気が遠くなるでしょう?

でも人間だったら見ただけで、条件が変わっていても同じコップだとわかりますよね。だからそのとき思ったんですよ。『人間の脳にはどうやったって、ロボットの脳ではかなわないんじゃないか。人間ってやっぱりすごいんだ』って。感動したんです。そして人間の脳のすごさを感じたからこそ、そんな偉大なものに少しでも近づけないだろうかと、ロボットにおける新しい脳の研究にさらに惹かれていきました」

まだないものを考える困難は、
新たなものを生み出す楽しさでもある。

大学院卒業後、研究の道を選んだ長谷川。彼が2000年頃からやろうと決めたのは、それまでの研究で主流だった人工知能とは全く違う、新たな「人工脳」をつくることだった。長谷川が考えていたのは、「より人間の脳に近い学習ができることが必要」ということだ。

「ロボットなどの人工知能に何かを学習させて、行動させるとき。そのためには膨大なデータが必要になります。私が学生のときに行っていた研究でも、現在世間でよく聞かれる『ディープラーニング』などの人工知能でも、根本は変わりません。だから学生時代の私も、ひとつのコップを学習させるためだけに、条件の異なる写り方をしたコップの画像を大量に入力しなければならなかった。

しかし、人間の学習の仕方を考えてみるとどうでしょう。道路に飛び出して、車に轢かれそうになった経験がある人は、その後道路へ飛び出すことをしません。道路に飛び出さないだけでなく、車にも注意するようになります。つまり、一度経験しただけで人間はそれを理解するし、経験することで自ら学習し、別の事象にも学習を活かした行動をとることができるんです。

根本的にインプットのやり方が異なる。大量のデータを基に計算をする人工知能ではなく、経験させたことを基に自ら学習をするような、なおかつアルゴリズムもシンプルなつくりの、新たな人工脳をつくろうとしました」

それまで他の人間がやってこなかったやり方で、人工脳の研究を試みる。まさしく何のノウハウもないスタートだったはずだ。しかし、研究者にとって「できない」ことは「どうやったらできるかと考える楽しみ」でもあるのかもしれない。当時を語る長谷川の言葉に、暗さはない。

「研究室に所属する学生さんたちと様々な論文を読んだり、実験データを眺めながら、たくさん議論をしました。まだ学生だと侮っちゃいけません、彼らは非常に考え方が柔軟で様々なアイデアを出してくれたのです。『こんな工夫もできるんじゃないですか?』とすぐに動いて、試そうとしてくれる。私も積極的に意見を聞いて、みんなで一緒に試行錯誤しながら前に進みました」

権威に認められなくたっていい。
目指すは、実際に社会から求められることだ。

着実に進んでいた長谷川の研究だったが、大きな挫折も訪れた。2006年、研究中の人工脳に関する論文を学会誌へ提出したところ、読まれもせずに突き返されてしまったのだ。「あれはね、本当に辛かったですよ」と彼は言う。

「論文が提出されると通常は、『査読』という専門家によって評価される過程を経て、学会誌へ掲載となります。ところが、私たちの研究論文は査読にさえも至らなかった。『ロボットが自分で学習する脳だなんて見たこともないし、可能だとも思えない』と編集者の理解を得られず、ろくに読まれもしないままだったんです」

これまでのやり方と違うと批判があるならまだしも、相手にすらしてもらえない。学会からまったく認められないなかで、長谷川の研究は独自で進められることとなった。相手にされないのならば、権威から認められなくても別にいい。実際に、人の役に立てたい。長谷川が孤独に目指したのは、研究者だけにうける技術ではなく、あくまで実用的な技術だ。

「2008年ごろ、開発した人工脳を『SOINN』と名付けて発表しました。多くのデータを必要とせず、自分で学習していく人工脳です。以後、企業と協力してサービスをつくったり、IoTへの応用を行ったり。実績をつくることでSOINNの能力の高さを示すことができたと思います。

2014年にはSOINNを使って企業へソリューション提供を行う会社も設立し、具体的にビジネスに役立てる事ができています。論文として『そんなことできるわけがない』と言われていたことが、実際にできている。むしろ大量のデータや難しいアルゴリズムを必要としないので、社会において使いやすいものとして実現しています」

ビッグデータというワードが頻繁に聞かれるようになり、IoTや人工知能といった分野も世の中で非常に注目を集めている。長谷川も、今では最先端をゆく研究者のひとりだ。

「きっとすぐに、一家に一台ロボットのある時代がきます。そのロボットに搭載される人工知能ならば、どれだけ高機能でも普通の人が使いこなせなければ意味がない。難なく操作ができるものが必要で、これこそが世の中できちんと役に立つロボットになれるのではないでしょうか」

長谷川はロボットが人間を助けて共存する社会を想像しながら、自らの研究がそこにより大きく寄与できることを望み、いまも研究を続けている。

全く結果が得られなかったとしても、
目の前の挑戦は続けたいものか?

先人の存在しない手法を研究しようとしたこと。学会から黙殺されてもなお研究を続けたこと。その道は多くの困難の伴うものであったはずだ。そのような困難に立ち向かうために、長谷川を支えたものはなんだったのか。最後に問うと、彼は少し悩みながら次のように答えてくれた。

「私は、『目の前の研究は、自分がどうしてもやりたいと思えるものだろうか?』と何度も自分に問いかけることを繰り返しました。先が見えない。成果がすぐにはでない。否定されるかもしれない。それでも、やりたいのか?問いかけたときに自分の答えが『YES』なら、前に進んできたんです。

研究とは失敗の連続だし、失敗を重ねたからといって、成果が約束されているものでもない。それでも自分がこの研究を信じて関われたこと自体に喜びを感じましたし、時間をかけて挑戦したいと思える研究に出会えたこと自体も、自分は幸せだと思っていました。自問自答を続けて、やめようと思ったことがなかったから、想いを燃やして携わり続けてこれたのだと思います」

長谷川 修(Osamu Hasegawa)
SOINN株式会社
代表取締役 工学博士
東京理科大学工学部を卒業後、東京大学大学院にて博士課程を修了。2010年より東京工業大学大学院にて、准教授。人工脳SOINNを活用したソリューションを提供するSIONN株式会社を設立し、現在は代表取締役を兼職している。
公式サイト:https://soinn.com/
TEXT BY 山縣杏
PHOTOGRAPHY BY 佐藤登志雄