現場現物、作ったもん勝ち。

ソニーには「作業台の裏でやる」という言葉がある。通常の業務とは別に、作りたいものを好き勝手に、こっそり作るエンジニアを容認する文化がある。今回取り上げるのは、作りたいものを勝手に作ってきた男。90年代に300万円もする当時最速のPCサーバーの開発を行い、のちにVAIOビジネス立ち上げの一翼を担った矢崎亮氏に、話を聞いた。

純粋に作りたいから作った
「世界最速」のPCサーバー。

—1990年当時、世界最速のPCサーバーを開発されましたね。

最初からネットワークサーバーを作ろうとしていた訳じゃないんですよ。当時、インテルから80486という新しいプロセッサが出たんです。CPU一個で、30万もするプロセッサ。その頃は、PC自体が一台30万程度ですから、それと同じ値段のCPUを積んでパソコンを作る会社は、まず他にないだろうと。他の人は絶対にやらないだろうと思って、やったわけです。出来上がったのが、数百万のパソコン。どう販売するか、なんてまるで考えてなかった(笑)。売れるかどうかよりも、普通のパソコンを作っていては後発のメーカーが勝てるわけがないという思いだけで、周りを説得したんです。エンジニアとしては、世界最速を目指したい。そこを貫き通した。とんでもなく早い、とんでもなく高いコンピューターを作ろうとしていたんです。

—周囲からは反対されませんでしたか?

反対意見の方が多かったですね。ただ、あの頃私が所属していたパソコンの部署は新設で、ソニーの基幹ビジネスとは程遠かった。家電と比べると非常に小さいビジネスな訳です。周りも、何をやっているかわからない。常にマイナーといいますか、陽の当たらないところをやっていた感じ。だから、あまり期待されていなかったぶん上層部から見逃されたんだと思います。自分たちにやる気さえあればできる環境でした。
ただ、パソコンとして売るには値段がネック。特殊な用途を見つけないといけない。結果的には、ネットワークサーバーとして売り出して、数十億のビジネスになった。商売としては、うまくいきました。もちろん数は出るものじゃないけれど、小さな部隊が食べていくには十分な売上利益を出せたんです。ただ、ですね。一度うまくいってもビジネスとして成功するためには最先端の開発を継続し、二の矢、三の矢が必要。そのための投資も必要。小さな部隊にはその体力もなかった。しかも、私自身、小さな成功に満足してしまっていて、上層部に掛け合う考えすら無かった。常に、一段上のことをやらなきゃいけない、ということに気がついたのはビジネスが失敗してからでした。これが私の反省点です。

とにかくモノを出すことが至上命題。
VAIO初号機、開発前夜。

—その後、VAIOの立ち上げに携わっていますね。

90年代、ずっと業務用とは言えパソコンに携わってきたので、業界のことはわかる。コンシューマー向けのデスクトップパソコンなんて、やっても儲からないし完全に後発。やるなら、ソニーらしい小型のノートPCだろうと、上層部の皆さんもそう思っていたと思います。業界も寡占化し、価格も下がっている時期。数が出ないと、儲からない。それでも、VAIOのデスクトップの国内一号機をやらないか、と言われた時は、喜んで飛びつきました。ずっと業務用PCをやっていた自分が、ここにきてやっとコンシューマーに向けたものが作れる。自分が好きなものを作れる。苦しい戦いになることは明らかだったので渋い顔をしながらも、内心は喜んでいました(笑)。

—VAIO開発にあたってのソニーの狙いとは?

家電というもの自体が、どんどんコンピューター化、ネットワーク化していく。儲かりそうもないとは言えパソコンを手がけておかないと、家電そのものも将来行き詰まるという危機感があったと思います。デジタルとネットワークの領域に敢えて踏み込むと同時にパソコン業界の国際水平分業、スピード感を身につける。そういう経営判断だったと思います。ちなみに、当時ソニーはVAIOの部隊を「ITカンパニー」と位置づけていました。パソコンだけを見ていたら、そういう名称は生まれなかったでしょう。でも、ソニーは、デジタルじゃなくて、ネットワークサービスへつなげることを、当初から意識していた。AVとITの融合によるコンシューマーパソコンで、新しいコンセプトの製品を提案していこうとしていたんです。そういう意味で、ビジョンとしては一歩先を行っていたんですね。

—かなり期待の大きなプロジェクトだったのでは?

それまでせいぜい十数人くらいの組織でパソコンを作っていたので、まず関わる人数の多さに度肝を抜かれました。サポート系の部隊だけで200人体制。会う人、会う人、知らない人ばかり。何を考えているかもわからない。私は、前任者から交代した、後釜のプロジェクトリーダー。滞っていたプロジェクトを立て直すために、後から加わった訳です。周りも「本当にできるの?」という目で、僕を見ていたと思います。最初のプロジェクトミーティングを招集した時、知らないメンバー50人近くを前にして、正直、ビビりましたね。スケジュールは遅れに遅れスペックすらきちんと決まっていなかったのですから、身に覚えの無い借金でいきなり債権者に囲まれた気分。でも、いざミーティングを始めてみると、皆何も言わないで僕の話を聞いている。ひょっとして、この人たちも何をやっていいかわからなかったんじゃないか?と気づいて。それからは前に出て、自分のペースで引っ張っていくことができました。初号機をとにかく出すことが、至上命題ですから。関係者それぞれが「あったらいいな」と山のように積み上がった機能を、片っ端から削ぎ落としていくことから始めました。ずいぶん勝手に、なくしたものもあったんですけど(笑)。商品企画やマーケからも、しょっちゅう文句をいわれましたけど、結果的にはみんな様子を見守ってくれた。とにかくモノを出す。ただ一つだけ落とさなかったのがソニーの技術を使ったテレビ録画、ビデオ編集機能。これまで落としたら後発なのにソニーの差別化がなくなってしまう。この開発をやっていたチームは最初どうせ本体が出ないだろうとたかをくくっていたら、本体が動き出し、しかも彼らの開発がメインの売り物になってしまって、それからは目の色を変えて信じられないようなスピードで間に合わせてくれました。形にする。それだけで突っ走っていましたね。この時出したのが、恐らく世界初の画像圧縮技術とテレビのハードディスク録画、ビデオ編集ができるパソコンでした。コンセプトはユニークだという評判はあったものの、価格が高く、数は売れなかった。それにしても売れないので、なんでそんなに売れないのかメンバー総出で秋葉原で販売応援しながらお客さんの声を聞きに行きました(笑)。

—初号機は売れなかった。がっかりされたのでは?

がっかりする間もなく、すぐ次世代機に取りかかりました。実を言うとね、初号機の発売前のある夜、品質管理の試験のためにテーブルに試作機を並べながら、ボーッと眺めていたことがあるんです。その時、改めて「ああ、このマシンはやっぱり面白い」と思った。作りながら、自分でも随分遊んだのですが、映像をコンピューターで扱えるというのは、面白いし不思議でした。ネックだったのが画質でした。初号機に搭載していたMPEG1エンコーダを、MPEG2エンコーダに置き換えれば、DVDのクオリティが実現できるはず。次世代機は、MPEG2エンコーダで行こうと、自分では当たり前の様に決めていました。ところが意外なことに周りから反対の声があがった。特に、技術サイドからの反対がすごかった。MPEG1でいく前提でアルゴリズムとかチップの開発もすでに進めていたので、MPEG2になると、それを捨て去るだけでなく技術的な積み上げが無い。でも私には逆にその技術的なポイントがわからなかったから、画質が良いほうが良いに決まっていると押し切りました。もっと多くの人たちに楽しんでもらえるという確信があった。当時は、VAIO創世記。体制ができてからは、きちんと稟議を通して、事業部長の承認が下りて、初めて開発がスタートできる体制になったのですが、当時はそんな状態じゃない。作りたいという思いだけで突っ走って、1997年、初号機を出した翌年に、高画質でテレビの予約録画可能なパソコンをリリースしました。これがいわゆるパソコンにテレビがついたテレパソのはしり。実用的に使えるマシンだったので、ヒットしましたね。

やりたいことを紙に書くより、
実際に作って持ってくる人が一番強い。

—エンジニアの熱意を認めてくれる文化があるのですね。

面白いエピソードがあります。私の部隊にはソフト屋さんもいたんですが、彼らはハードウェアを支援するソフト屋さん。アプリケーションは別部隊に任されていて、役割分担があったんです。ところが、うちの部隊のソフト屋さんが、こっそりアプリケーションも作り始めていた。ある時、「こんなものができちゃったんです」と部下が持ってきたのが、あるアプリのプロトタイプ。次世代機は最初テレビ録画の機能はあっても使いやすいとはお世辞にも言えないアプリを搭載していたのですが、それに憤慨した同じ部隊のソフト屋さんが僕に黙ってプロトタイプを作っていたのです。業務時間に業務外の物を勝手に作っていたとも言えるのですが、そのプロトタイプを見るととても使い勝手が良さそうでしかも面白い。まあ、私も随分好き勝手にやらせてもらいましたから、そこまでできている物は承認するほかありません。こうして生まれたアプリが、ギガポケット。名前も、技術者が名付けました。マーケターは、そのネーミングに大反対したんですよ。ユーザーがパッと聞いて覚えにくいし、そう言うわかりにくい名前をブランディングするにはプロモーションを相当一生懸命やらないといけない。それでも、技術者はどうしても、「ギガ」と「ポケット」という言葉を使いたいと粘った。最後の最後は、エンジニアの熱意に折れて、認めてくれた。勝手にやらせてくれる文化というか、その度量は、やはりソニーにはありますね。権威に歯向かったらえらいことになるぞ、という組織なら、こうはならない。一番強いのは、「こういうのをやりたい! 」と紙で持ってくる人ではなく、実際に作って持ってくる人。売れる売れない、の前に、面白い、やりたい。これは、ものづくりの本質でもあると思うんです。ソニーだって勿論勤務時間に業務外の事をやるのはルール違反。でもできちゃった物を上司に持って行って怒られたエンジニアを見たことがありません。

—まさに、ご自身がずっと貫いてきた考え方ですね。

現場現物、これに尽きると思います。本当にやってみて、面白いと思わないと、つくっちゃいけない。これは自戒を込めていうんですが、人間慢心すると、紙に書いたり、頭で考えたり、パワポで作って安心しちゃう。そういったものが、はびこるようになるんですよ。自分も商品企画の時には、パワーポインターになりましたから。その結果、どうなったか。生煮えの状態でプロジェクトが進んで、そういう商品はやはり失敗した。パワポの情報を、そのまま受け取って、そのまま作っちゃいけない。ポジショニングがどうだとか、どのくらい売れるとか、そういう情報よりも、本当に欲しい? 本当に面白い? を大事しないといけない。例えばね、エンジニアが色々アイデアを出してくるときに、「僕だったら絶対買うと思います」と言うことがあるんですが、それだけでは僕は信じない。自分で使って、楽しんでいる人の言うことは信じる。「僕だったら買います」と言う人間ほど買わないで、サンプルをタダで持って帰るんですよ。自分でお金出してまで遊んでみたいものじゃないとだめなんです。

—離れた今、どんな思いでソニーを見つめていますか。

ユーザーの主流は、どんどん変わっていますよね。私がソニーに入った時は、ハードの時代。それからソフトの時代が来て、さらにサービスという領域に来ていて。ソフトとハードとサービス。一体で捉えられる人が、少ないと思うんです。全部ひっくるめて、ユーザーが触れて感じるもの。これに尽きると思うんですね。一般に、ハードが決まってからソフトが走り始めるけれど、量産時期が決まっているから、開発期間はどうしても限られてしまう。それはそうなんだけれど、ユーザーにとって本当にいいものかどうか、立ち止まって、そこをもう一回見直せば、本当にワクワクする商品ができると思うんです。ソニーには優秀な人間がいっぱいいるから、エンジニアの力を最大限に引き出すことができれば、ますます面白くなっていくと思う。これは私の持論ですが、何も考えていない人に「勝手にやっていいよ」と言っても何も生まれない。新規事業開発なんて部署を作ったところで、作りたいものがない人は、何も生み出せない。勝手にやっている人は、言われなくても勝手にやっていると思うんです。だから、わざわざ僕が言うことでもないかもしれないけれど。若いエンジニアには大いに勝手にやって欲しいと思いますね。

矢崎 亮(Tasuku Yazaki)
1983年ソニー株式会社に入社。パーソナルコンピュータのハードウェアエンジニアとしてキャリアをスタートし、業務用ビデオ作成用のPC、X86ネットワークサーバーの開発に携わる。1996年からVAIOデスクトップの開発商品化に参加。その後、商品企画を経て2007年から6年半米国サンディエゴに赴任。VAIOの北米、中南米のビジネスマネジメントを行い、2011年に現地エンジニアリング組織を統合して、日本の組織との連携強化と米国西海岸のサードパーティとの協業を実現した。2013年末に帰国し、2014年5月にソニー退社。
TEXT BY 山田知奈
PHOTOGRAPHY BY 佐藤登志雄