『iPhone』に、最も接近した男。

かつてPDAという製品があったのをご存知だろうか。PDAとは、Personal Digital Assistantの略。手のひらサイズの携帯情報端末だ。ソニーが生んだPDA『CLIE』は、後発にもかかわらず市場を席巻し、PDAを一躍メジャーにした。今回、『Mowe』は、あえて『CLIE』に焦点を当てる。2000年代初頭、スマートフォンのコンセプトに最も近かったであろう『CLIE』は、なぜ『iPhone』にはなれなかったのか。『CLIE』の開発部隊を率いていた、元ソニーの吉田雅信氏に話を聞いた。

PDA市場を創った
伝説のPDA。

—『CLIE』でソニーが実現したかった世界とは?

スマホのような情報端末中心の世界をつくって行こうという期待感は当初から、そして開発を終えるまで変わらずありました。ただ、スマホという概念が生まれる以前ですから、形も中身も、イメージとしては固まっていませんでした。パソコンは雛形がありましたが、PDAはベースとなるものもないところからのスタートでしたから。初代の『CLIE』こそ、『Palm』から提供された基本設計を踏襲していましたが、2002年にリリースしたものは、全部中身を変えてソニーらしい『CLIE』を目指していたんです。

—ソニーらしい『CLIE』とは?

例えば、もともとPDAの生みの親である、『Palm』の創業者が考案した画面のサイズを、大幅に改変しました。当初のサイズは正方形。これを縦長の液晶に切り替えたんです。猛反対にあいましたが、同じものを使っている限り、勝てない。戦う土俵を変えたいんだと周囲を説得しました。縦長のソフトウェアをつくることで、ソフトウェアのバリエーションも増えました。ちょうど横にすると、ビデオも見やすい。16対9の出始めでした。この時市場に投入したモデルは、業界の中でもかなり評価が高かったですね。その頃が、最もPDA市場が盛り上がっていた時期と言えるでしょう。『CLIE』は間違いなく、その点火剤になっていました。国内では圧勝。アメリカでも、その勢いでトップになりました。

—2002年当時、アメリカにある『Palm OS』の開発会社に出資されていますね。

当時、26の社内カンパニーがあって、私もその一つのトップだったんです。ソニーはそれぞれのディビジョンカンパニーに、ほとんど全ての権限を与えて、一つの会社のようにしてくれた。その中で、私の権限と判断で投資をしていいと。もちろん最終的にソニー本社の承認はいただきました。後日談ですが、その会社にいたメンバーの多くが、今アップルでソフトウェアの開発をしていたりします。ここまでいえば、まあお分かりでしょう。

技術は完成していた。
時代が追いついていなかった。

—『CLIE』は、『iPhone』になり得た。そう言っても差し支えないでしょうか。

当時PDAのOSは、『Palm』、『Symbian』、『WindowsCE』の三つ巴。その三つとも、のちに出て来た『iOS』に負けた。その時代は、スマホを受け入れる土壌が出来上がっていなかった、とも言えると思いますね。インターネットがダイヤルアップ回線でつながっている時代ですから。1秒あたりの通信量が1キロバイト程度だったのが、今は10メガバイト。つまり、10万倍の開きがあったんです。時代が、PDAが実現したい世界、『CLIE』が実現したい世界に、追いついていなかった。簡単に言えば、そう言うことだと思いますね。

—2005年、日本市場から完全撤退しましたね。

2003年時点で、200万画素のカメラを搭載していたし、デジカメに搭載されているフラッシュも、『CLIE』は搭載していた。おサイフケータイが普及する以前に、Felicaリーダーにも対応していた。技術的には当時の最先端を詰め込んでいた、と言っても過言ではないでしょう。ただ、唯一携帯電話機能がなかった。『CLIE』の直接の敗因は、iモード携帯です。我々がPDAの開発を進めている傍らで、iモード携帯が急激に伸びていった。携帯機能のない『CLIE』が、iモードに勝てなかったのは、まあ当然の結果だったと思います。

—なぜ、ソニーには『iPhone』が作れなかったのでしょう?

技術的にはずっと前に完成していたんですよ。ただ、アップルがすごいのは、相当長い時間をかけて、周到に準備を重ね、戦略を練り上げて来ている。もし仮に、『iPhone』が2000年初期にリリースされていたら、うまくいかなかったでしょう。Steve Jobsはおそらく、ずっと出すタイミングを窺っていたんだと思います。3Gというインフラが整うのは、2008年。その時期を待って、ばらまいた。SNSの波は、おそらくSteve Jobsも想定していなかったかと思うんですが、世の中的な流れを、全て巻き込んでいった。『LINE』や『Facebook』は、iモード携帯だったら、あそこまで広がっていないでしょう。全てが、ある一瞬のタイミングにマッチしていた。天の采配だった、としか言いようがないと思います。そこで勝者となったのが、『iPhone』だった、ということ。ああいう芸当は、残念だけれど、ソニーにはできないと僕は思うんです。ソニーという会社は、いいものができたら、すぐに世に出しちゃう会社だから。じゃあインフラまで自分でやるか?というと、さすがにそこまではできない。シリコンバレーの会社に我々が学ぶべきところは非常に多いと思いますね。

自転車操業で倒れないコツは、
思い切りペダルを漕ぐこと。

—我々が学ぶべきところとは、具体的にどういうところでしょう。

ここからは少し、経営論になるのですが、あの当時、日本の会社が一斉に成果主義を導入しました。成果主義には、罠があります。成果を短期で出すことばかりに気を取られ、長期的視点に立つことが難しくなる。いいものを作ったら、すぐにキャッシュを回収しなければならない。ソニーがその罠に陥らずに成長できたのは、創業者の時代です。トップが最後に責任を取ることができれば、いろんな意味でグリップが効くんですよ。8mmビデオの開発だって何年もかかった。長い期間利益を出していなかったと思いますよ。『プレイステーション』もそうです。すぐにキャッシュを回収しようとしていたら、ああいったものは生まれなかったと思うのです。じゃあ翻って、アップルはどうか。Steve Jobsを退陣させた後で会社が傾いている。それから彼を呼び戻していますよね。マイクロソフトも、ビル・ゲイツの時に大成功を納めた。Facebookも、Googleも、創業者が舵を取っている。そういうところが伸びているわけです。

—創業者も人間です。事業承継は必ずあると思いますが。

だから、カルチャーを作るしかないんですよ。ソニーはソニーのカルチャーを色濃く残すことが求められていると思う。例えば、リクルートは企業カルチャーがずっと生きている会社だと思うんです。カンパニー制があり、アントレプレナーがどんどん出てくる。創業者世代が去った後、彼らが持っていたパワーを継承するのは、その次の世代の役割ですね。

—2007年にソニーを退職されていますね。

2004年に、ソニーエリクソンに行った後、2007年に声がかかって、ソフトバンクに行きました。メーカーとして、キャリアにずっといじめられていたから、今度はキャリア側に行きたいなと(笑)。これはまあ冗談ですが、作る側と運営する側、どちらも経験することが大事だと思ったんです。そこで、何の因果か、今度は『iPhone』を日本に導入するミッションに取り組みました(笑)。
20年以上勤めたソニーは、私に人生というものを教えてくれた会社。それはもう、本当にリスペクトしています。ただ、自分のソニー人生を振り返って思うのは、アントレプレナー的なことが、できていなかったなと。技術者としても、ビジネスマンとしても、知らず知らずソニーという看板を背負っていた。看板を外せば、自分には何もないんだと気付いたのは、ソニーから離れた後でした。当時は、いくら儲けて、キャッシュがいつ入るから、口座にいくらあれば会社が潰れないか、なんて考えたこともなかった。ソフトバンクに行った後で、孫さん(孫正義氏)に学びましたね。自分で事業をやると、自転車操業になる。じゃあ、自転車操業で倒れないコツは何か。思いっきりペダルを漕ぐ。それに尽きるのだと思います。

吉田 雅信(Masanobu Yoshida)
ドリームフォレスト株式会社
代表取締役社長

1980年ソニーに入社。2001年より、『CLIE』を手がける事業部門のプレジデントを務め、2004年、ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズの日本向け端末部門長に就任。2007年より、ソフトバンクモバイル株式会社にて常務執行役員を務めた。2011年、ドリームフォレスト株式会社を設立し、現在に至る。
公式サイト:http://dreamforest.co.jp/
TEXT BY 山田知奈
PHOTOGRAPHY BY 今井裕治